反応しない練習①
反応しない練習 / 著 草薙龍瞬 を読んで
お気に入りの箇所抜粋 & 感想👇👇
・心とは求め続けて渇き続けるもの。
・求める心を真に受けて反応すると、心は満たされなさに駆られて、次から次へと「人生の変化」を求め続ける。
「最近虚しいな、昔はもっと楽しかったのに」とやたら過去を振り返ったり、「こんな仕事やってられるか」と転職を繰り返したり。浮気や薬といった危ない刺激に走ったり、「自分はこんなものではない」とふんぞり返り傲慢になったり…
・求めても満たされるとは限らないのが心である。反応しても、空回りするだけで意味がない。
・心は求め続けるもの。
「このままではいけない」「何かが足りない」という得体の知れない欠落感や焦り、心の渇きが収まり、「人生はそういうもの」と肯定出来るようになる。
・承認欲求
→注目して欲しい、愛して欲しい、評価して欲しい。
・承認欲求で外の世界に反応すると、「周りは期待に応えてくれない人間ばかり」と不満や物足りなさを感じる。人間も世の中も「なっていない!」と憤慨する。
・「他人の小さな事が目について不満を感じる」は、「もっと自分を認めて欲しい!」という承認欲求だったりする。
・幼い頃の寂しさから承認欲求が続いているかも?
・「そうか、私には満たされない承認欲求があるのだ」「この不満は、承認欲求の不満なのだ」と繰り返し、言葉で客観的に理解するように努める。
・焦りや人間関係を巡る不満は「求めすぎる心」から来ている。自分と他人に「求めすぎていないか」を常に気をつける習慣。貪欲に支配されると、自分自身が苦しいし、関わる相手も必ず不幸にしてしまう。
・「求める心」に始まる人間の人生には「怒り」が潜在的に付き纏うもの。
・怒りは「理解する」という心の習慣によって解消出来る。
・怒りを放っておくと、怒りが徐々に蓄積させる。怒りっぽさや欲求不満、気難しい性格となって、年を取る程に外に現れていく。
・正しい正解
→あるものをあるとだけ、ありのままに、客観的に、主観抜きのニュートラルな目で物事を見据える。ただ見ているだけ、動揺しない、何も考えない、じっと見つめているだけ。徹底したクリアな心で、自分を、相手を、世界を理解する事。
・判断する事は気持ちいい。良し悪し、正しい間違っているといった判断は、それだけで分かった気になれる。結論が出せた気がして安心出来る。
・判断する事で認められた気分になれる。「あの人はここが間違っている」「彼があんな事をしたからこうなったのだ」と友達に事情を話し、「それはおかしいよね、間違っている」と第三者のお墨付きを得ようとする。これは「やっぱり私が正しいのだ」と思いたいが為の行動。承認欲を満たせる判断を求めている。
・「叶わなかった過去の願い」が苦しみを生んでいる。「失敗した、こんなはずではなかった」という判断が苦しみを生んでいる。「相手はこうでなければ」という期待と欲求が苦しみを生んでいる。
これらの執着を手放さなければ、自分も相手も苦しみ続ける。
・かつての願いが、叶わなかったという事実がある。その願いは、もはや存在しない妄想である。執着しているから、今なお見える気がするが、本当は存在しないもの。
・人間が考える多くの判断は、実は真実ではないし、有益でもない。暇つぶし。何故そんな判断をしているのかといえば、「判断する事が気持ちいい」「承認欲求が満たせる」事が理由。
→心が渇いている人の苦しみ。
・人間は一部しか見ていない。立っている場所も、見えているものも全く違うにも関わらず、全てを理解した気になって、「自分は正しい」と思い込んでいる。
・人は皆孤独。でも、別の人の孤独を思う事が出来たら、その時孤独ではなくなる。
・執着すれば、その一点が大きく見えるのは自然な事。その一点が人生の全てにさえ、見えてくる。
◎感想◎
「心は求めて渇き続けるもの」だという箇所を読んで、私は納得した。
何をやっても満たされない、永遠に求め続けてしまうこの欲を、私は扱えきれなくて困っていたから。
でも、欲とはそういうものなのだと分かったら、とても楽になった。
怒りを溜めると大きくなって、鬱、イライラなど表に出やすくなってしまうとの事。
それも納得がいく。定期的に怒りを感じたらノートに書き出したりして、怒りを認識して昇華させていきたい。
判断する事は確かに気持ちいい。
判断すると、相手の事が分かった気になって安心する。
得体が知れないと不安になるから。
自分が安心する為に、勝手に相手を分析してラベルを貼っていた。
私の心も渇いているのだろうか…
叶わなかった願いにばかり未練を残して執着しがちである。
しかし、それも存在しないただの妄想で、今は存在しないもの。
そう思って、叶わなかった事を手放していければ良いよね。
つい「自分は正しい」と思っちゃうけど、それはほんの一部でしかない。
相手も正しくて自分も正しいし、相手は間違っていて自分も間違っている。
世の中に正しい事なんてないのかもしれない。
「自分は正しい」と思って押し付けてしまうのは、とてと傲慢だ。